石破茂さんの政治的ルーツには、父親・石破二朗さんの存在が大きく影響しています。
石破茂さんが「雲の上の人」と尊敬する父親・石破二朗さんは、農家の次男から東京帝国大学を卒業し、官僚、政治家として日本と鳥取県の発展に尽力した人物です。
尊敬していた父・石破二朗さんは、一体どのような人物だったのか、わかりやすくお伝えします 。

石破茂の父親・石破二朗の職業は元鳥取県知事

■ 生誕と家庭環境…鳥取県の裕福ではない農家に次男として生まれる
■ 最終学歴…東京帝国大学法学部を卒業。当時の地方農家出身者としては異例の快挙
■ キャリアの始まり: 卒業後、内務省に入省し、官僚の道を歩み始める
石破茂さんの父親である石破二朗(1908–1981)さんは、中央官庁でのキャリアを持ち、建設行政を経て鳥取県知事→参議院議員→自治大臣まで務めた行政家です。
私の父親、石破二朗は鳥取の農家に生まれ、東京帝国大学を出て建設事務次官、鳥取県知事、参議院議員、自治大臣を務めました。
引用元:婦人公論.jp
石破二朗さんは1908年7月29日、鳥取県八頭郡大御門村(現・八頭町)の農家に生まれました。
決して裕福ではありませんでしたが、勉学に励み、1932年に東京帝国大学法学部を卒業します。
地方農家の子が東大に進むのは極めて珍しく、石破二朗さんの努力と才能が際立っていました。
卒業後は内務省に入省し、官僚としてのキャリアを歩み始めます。
石破茂の父親・石破二朗の戦前・戦中の戦後の軌跡

石破茂さんが生まれる1957年まで、石破二朗氏は官僚として日本の激動期を生き抜きました。
内務省でのスタート(1932年~)

内務省社会局保険部に入省し、警視庁や地方勤務を経験。
1937年には警視庁警視・本所厩橋警察署長を務め、治安維持に尽力しました。
戦時中の海外勤務(1942年~1943年)
北海道庁拓殖部長を経て、陸軍司政官としてシンガポール(昭南軍政監部)に派遣され、占領地行政に従事しました。
戦後復興と建設省(1945年以降~)
終戦後は戦災復興院で働き、日本の復興に関与。
1950年に設立された建設省に移り、1955年には建設事務次官に就任し、道路や住宅整備など戦後復興の要を担いました。
日本経済新聞では、この時代を「戦後日本の基盤を支えた」と評価しており、後に「道路の神様」と呼ばれる礎を築きました。

石破茂と父親・石破二朗親子から見る職業タイムライン

石破茂さんは1957年2月23日に生まれ、幼少期から青年期を鳥取県で過ごしました。
この時期、父親・石破二朗さんは主に鳥取県知事として地域を牽引します。
ここからは、石破茂さんの幼少期と父親・石破二朗さん親子の様子を時系列でみていきましょう。
石破茂の幼少期(1957~1960年)
石破二朗さんは1958年、建設事務次官を辞して鳥取県知事に初当選。
道路や電力整備に力を注ぎ、県民生活を大きく改善していきました。
そんな中、石破茂さんは1957年に誕生しています。
そして翌年の1958年に、父の知事就任で一家は鳥取へ移住しました。
石破茂さんは豪邸の知事公邸で育ちましたが、自分の父の仕事は理解できず「父の職業が書けなかった」と後に語っています。
石破茂の小学生時代(1960~1970年)

石破二朗さんは知事として「石破県政」を築きあげます。
道路や橋を次々整備し、県民一人あたり公共事業費は全国トップ水準に達しました。
そして観光では、鳥取砂丘を全国区に押し上げることに貢献しました。
朝日新聞によると、石破二朗さんが「砂丘は鳥取の恥」と語った背景には、後進性を打破したいという意志があったといいます。
石破茂さんは当時まだ小学生で、鳥取市内で小学生時代を過ごし、野球や読書に夢中な少年でした。
この頃から政治家である父のことを少しずつ理解できるようになってきたといいます。
石破茂の中学~高校時代(1970~1974年)

石破二朗さんの知事最終期に差し掛かった頃。
教育施設や医療整備を進め、過疎対策に尽力しました。
一方の息子の石破茂さんは、政治への関心を強めていき、慶應義塾大学進学を志していました。
石破茂の大学時代(1974~1979年)

石破二朗さんは、1974年に参議院議員に転身。
地方の声を国政に届け、過疎対策を全国課題へと持ち込みました。
石破茂さんは、慶應義塾大学法学部へ進学し、政治家への道をさらに意識し始めました。
石破茂の社会人初期(1980~1981年)

石破二朗さんは1980年に、自治大臣兼国家公安委員長に就任し、地方財政の強化や治安維持に取り組みました。
石破茂さんは、三井銀行に入行しましたが、政治家の準備を着々と進めていました。
そして、石破二朗さんと田中角栄元首相は「刎頸の友」の関係であり、石破二朗さんの死後、もう一人の父と仰ぎ見る田中角栄元首相が石破茂さんに「お前が出ろ」と政界入りを促されたとのちに語っています。
父は角栄先生と本当に仲がよくて、81年に父が亡くなったのを機に、角栄先生から「おまえが出ろ」と勧められて政界入りした経緯があります。
引用元:婦人公論.jp
石破茂の父親・石破二朗の功績と息子・石破茂への影響
茂のパパ。
— Madi (@Madi73522263) July 25, 2025
石破 二朗(いしば じろう、1908年〈明治41年〉7月29日 – 1981年〈昭和56年〉9月16日)は、日本の内務・建設官僚、政治家。位階・勲章は正三位・勲一等瑞宝章。 pic.twitter.com/4mRdAxZdXG
石破二朗さんの功績をわかりやすく大きく3つにまとめました。
■ 戦後復興の要職
建設事務次官として道路や住宅の基盤整備を推進。
■ 地方近代化のリーダー
知事として鳥取の道路・教育・観光を近代化。
■ 国政での地方重視
参院議員・自治大臣として、地方の声を国政に届けた。
石破茂さんの「地方創生」や「保守リベラル」と呼ばれる姿勢は、父親・石破二朗さんの生き様から受け継いだものといえるでしょう。
石破二朗さんは、農家の次男から東大卒官僚、知事、大臣へと駆け上がった努力の人でした。
石破二朗さんが残した「地方を大切にする心」「国家の未来を見据える視点」は、今の日本が直面する課題を考える上でも、私たちに多くの示唆を与えてくれているのかもしれません。

