大阪府知事として全国的な知名度を誇り、関西万博の推進でも全国的な注目を集めた吉村洋文さん。
50歳を迎えた今も「若く見える」と評判のルックスですが、若い頃はどのような人物だったのでしょうか。
地元では「神童」と呼ばれながらも挫折を経験し、やがてこの政治の世界へ飛び込むだという背景があります。
この記事では、政治家になる前の吉村洋文さんの若き日々にもスポットを当て徹底調査してみました。

吉村洋文の若い頃は地元で「神童」と呼ばれていた‼

■ 吉村洋文(よしむらひろふみ)
■ 1975年6月17日生/50歳
※2025年現在
■ 大阪府河内長野市
■ 大阪府立生野高等学校卒業、九州大学法学部卒業
■ 弁護士、税理士 各資格保持
■ 大阪府知事(公選第20・21代)、日本維新の会代表(第4代)、大阪維新の会代表(第3代)
50歳とは思えぬ若々しさとエネルギッシュな風格で、吉村洋文さんがいるから大阪府民になりたいと言わせるほど、立派にリーダーシップを取り続けている吉村洋文さん。
その若い頃には、やはり沢山のエピソードが隠れていました。
地元では「神童」と呼ばれた小・中学生時代

・成績は学年でほぼ1位を維持
・陸上部に所属
・地元では「神童」と呼ばれる存在
・スポーツも万能で女子からもモテていた
・剣道初段
吉村洋文さんは1975年6月17日、大阪府河内長野(かわちながの)市に生まれました。
実家はごくごく一般的な中流家庭で、父親は電気関係の会社の設計技師、母親はパートをしていたといいます。
「お父さんは電気関係の会社の設計技師で、お母さんはパートをされていました。同年代の子たちに彼のことを聞くと『頭が良くて、ちょっと生意気だった』と言っていましたね」(近隣住民)
引用元:週刊現代
少年時代の吉村洋文さんは、野山を駆け回る元気な少年で剣道にも真剣に打ち込んでおり、武道の精神力が鍛えられたそうです。
「小学校時代は、本当に外で遊んでばかりで。田舎だったので、山とか川とかで遊んだり、そんなことをしていましたね」と振り返り、さらに「剣道が好きだったので、もう、そこでずっとやっていましたね。警察の道場に通ったり、一生懸命、そこでやってました」と、剣道少年だったことを明かした。
引用元:スポニチ

地元の河内長野市立千代田小学校、千代田中学校という公立校に通った吉村洋文さん。
中学時代の同級生の証言によれば、当時から抜群の成績を誇っており、スポーツ万能で女子からもモテモテだったようです。
「僕たちは『よっしん』と呼んでいました。彼はとにかく勉強ができました。中学校は一学年で7クラスあったんですが、成績はほぼずっと学年で1位だったと思います。陸上部に入っていて、スポーツも万能でしたし、女の子からもモテていましたよ」
引用元:週刊現代
近隣住民からも「頭が良くて、ちょっと生意気だった」という声が聞かれるほど、地元では「神童」として知られる存在でした。
モテる条件をすべて満たしているという感じが「やっぱり」という感じですよね!
名門・生野高校での初めての挫折

・ラグビー部所属、花園(全国大会)を目指す
・「毎日毎日、遅くまで楕円球を追いかけていた」
・勉強は二の次で部活に熱中
・同級生からは「印象が薄い」「目立たなかった」との声
・名門校で優秀な生徒が多く、相対的に埋没
優秀な成績で進学したのは、大阪府立生野高等学校。
旧制中学の流れで、関西の政官財界の要人を多数輩出してきた名門進学校です。
偏差値は70を超え、府内でもトップクラスの高校でした。
しかし、ここで吉村洋文さんは人生で初めての大きな挫折を味わうことになります。
出身校である生野高校の同窓会サイトでは部活に没頭し、勉強が二の次だったことを明かしています。
僕は高校生時代、ラグビー部。楕円球を追っかける生活にあけくれていました。勉強は二の次になっちゃってましたね。でも、その頃の思い出は深く今も残っています。
引用元:大阪府立生野高等学校同窓会HP

ところが、高校時代の同級生たちに話を聞くと、意外な反応が返ってきます。
「ラグビー部に所属していたようですが、吉村君に強い印象がないのです。’14年に彼が国政選挙に出たときも、同級生たちと『ああ、確かそんな奴がおったな』と話したくらいです」
引用元:週刊現代
高校時代の同級生たちは皆一様に「覚えていない」「印象が薄い」と話しているのです。
中学時代の同級生は次のように分析しています。
「彼が政治家になってから、時々高校時代の話が報じられると、みんなが『おとなしい』『目立たない』と言っているので驚きました。地元では神童でしたが、生野高校では彼ぐらいの秀才はいくらでもいたのだと思います。地元の同級生たちで『生野(高校)に行って埋没したんかな』と話していました」
引用元:週刊現代
吉村洋文の若い頃・大学時代は人生で最も勉強した

・センター試験失敗で現役合格できる大学を探した結果、九州大学へ
・大学2年生から司法試験勉強に没頭
・「人生で一番勉強した」時期
・23歳で司法試験一発合格
高校を卒業後、吉村洋文さんは1994年4月、九州大学法学部に進学しました。
大阪から九州への進学は珍しく、同級生の多くが京大や阪大に進学する中での選択でした。
実は吉村洋文さん自身、後に橋下徹さん、松井一郎さんとの談話の中で「センター試験で失敗して、なんとか現役で行けるところを探した」と語っています。
高校時代の挫折は、大学進学にも影響を与えていたようです。
しかし、ここから吉村洋文さんの猛烈な巻き返しが始まりました。
大学生活を謳歌する同級生たちを尻目に、大学2年生から旧司法試験の勉強に打ち込むようになった吉村洋文さん。
そして、1998年10月、23歳の若さで旧司法試験に一発合格という快挙を成し遂げます。
当時の司法試験合格率は3%前後という超難関試験でした。

吉村洋文の若き弁護士時代と武富士訴訟の過去

・番組制作会社の顧問弁護士をしていた縁でやしきたかじんさんと知り合う
・たかじんさんから「政治をやるべきや」と勧められる
・たかじんさんの紹介で橋下徹さんと出会う
・橋下徹さんとの共通点は「弁護士」と「ラグビー」
・2011年に大阪維新の会公認で大阪市議選に出馬、初当選
司法修習を終えた吉村洋文さんは、東京にある熊谷綜合法律事務所に所属しました。
同事務所の代表・熊谷信太郎弁護士は、吉村洋文さんの働きぶりをこう評しています。
このマーソ株式会社の社外取締役である熊谷信太郎氏が、大阪府知事である吉村洋文氏 の法律事務所勤務時代のかつての上司だった、というのを後日報道で知った時はマジで驚いたわ。
— Amour et Argent (@LeMaidlatte) May 27, 2021
何?この何とも言えないコネクション。 https://t.co/WVaDlZe7qX pic.twitter.com/sgY2QJZzsL
「仕事ぶりは極めて真面目でしたよ。毎日夜の11時か12時まで残り、土日もよく出勤していたようです。」
引用元:週刊現代
しかし、この時期に吉村洋文さんは大手消費者金融・武富士の訴訟代理人として関わることになります。
2000年代初頭、武富士は反社会的な取り立てや業務の違法性などを指摘するメディアに対し、訴訟を連発。
言論萎縮を目的とした「スラップ訴訟」を次々と起こしていました。
武富士から訴訟を起こされたジャーナリストの寺澤有さんは次のように語っています。
「武富士から、私が執筆した記事が名誉毀損に当たるとして、2億円の損害賠償を求める訴訟を起こされました。吉村氏は武富士側の弁護士の中でも、一番の若手でしたね。彼を見たとき『こんな若さでスラップ訴訟に関わって、経歴に傷がつくんじゃないか』と、相手方ながら思ったことを覚えています。」
引用元:週刊現代
この経験は、吉村洋文さんにとって複雑な思いを抱くものだったかもしれません。
2005年に独立し、司法修習の同期などと法律事務所を立ち上げるまでの期間、「このままでいいのか」という葛藤があったのではないかと思われます。
運命を変えた「やしきたかじん」との出会い

吉村洋文さんは2005年に独立し、大阪で友人らと弁護士事務所を開業しました。
吉村洋文さんの人生を大きく変えたのが、タレントのやしきたかじんさんとの出会いでした。
「吉村氏は、知人から紹介されて、ある番組制作会社の顧問弁護士をやっていました。そこの会社がタレントのやしきたかじんさんの番組を制作していたことで、たかじんさんと知り合ったんです。たかじんさんから気に入られ、『あんたは政治をやるべきや』と言われたそうです。それで、たかじんさんから橋下徹さんに引き合わされたと聞いています」(吉村氏を知る弁護士)
引用元:週刊現代
橋下徹との運命的な出会い

おひる12時からは「胸いっぱいサミット!」🎉
— カンテレ (@kantele) January 30, 2016
吉村洋文大阪市長がバラエティー番組初登場😍
憲法が面白く弁護士に⁉
政治家になるきっかけは「やしきたかじん」と「橋下徹」‼
意外な素顔が明らかに😊ぜひごらんください🙇#カンテレ pic.twitter.com/DRwa4a5GKI
やしきたかじんさんから「政治家になったらどう?」という提案を受け、橋下徹さんとの運命的な出会いが実現します。
橋下徹さんも府立北野高校時代はラガーマンとしてならしていました。
二人は「弁護士」と「ラグビー」という共通点があり、意気投合したといわれています。
維新の橋下徹さんは、「シティズ(アイフルの子会社)の顧問弁護士」
— 大阪が好きやねん#カジノのための万博はやめなさい@維新にこれ以上大阪を壊されてたまるか! (@oosakahaoosaka) September 28, 2024
維新の吉村洋文さんは、「武富士の、顧問弁護士」やったって、みなさん、知ってはりますよねえ。 pic.twitter.com/yBOCjuOxv4
吉村洋文さんは弁護士に成り立ての頃のスラップ訴訟への関与に対する思いや、生来のプライドの高さ、そして自身の能力への自負があったのではないでしょうか。
吉村洋文の若い頃・政治の世界で維新の会

🔴候補者紹介
— 日本維新の会 学生部 (@ishin_students) April 7, 2023
吉村洋文大阪府知事候補
2011年,大阪市議選に出馬・当選し政治の世界へ.政調会長として都構想をはじめ様々な政策を手掛けてきました
その後,橋下徹氏の後継として大阪市長・知事を歴任. これからも知事として大阪の成長を止めない為に,大阪府知事選挙に立候補しています! pic.twitter.com/53QiaO3udh
そうして吉村洋文さんは2011年に大阪維新の会の公認を受け、大阪市議選に出馬し初当選を果たしました。
2014年には大阪4区から衆院選に出馬し、国会議員に転じました。
維新の会の議員は、当時の吉村洋文さんについてこう語っています。
「当時の吉村氏は維新の討論会でも目立つタイプではなく、怒られはしないけど、存在感もないという印象でしたね。委員会などでも、いつも下を向いてボソボソと喋っていた。先輩に上手くゴマをするような如才のなさがあるわけでもない。
ただ、『超』がつくほどの真面目さですし、本当によく勉強をしている。そのあたりが橋下さんは気に入っていたんじゃないでしょうか。
引用元:週刊現代

吉村洋文さんと当選同期の岩谷良平さんは、吉村洋文さんの仕事ぶりについてこんなエピソードを明かしています。
「維新の都構想推進本部戦略チームのリーダーが吉村さんでした。かなりの激務でしたが、懸命に仕事をしていましたね。ある日、深夜に吉村さんからメールが届いていた。開いてみると、都構想のロゴのデザインについてで、『A案とB案のどちらがいいか、深夜12時までに意見をください』とあった。慌ててメールを送りましたよ(笑)。本当に24時間体制に近い形で仕事をしていたんじゃないかと思います」
引用元:週刊現代
そして2015年、大阪都構想が住民投票で否決され、橋下徹さんが大阪市長を退くことになりました。
維新の会にとってイメージ刷新が必要な時期に、吉村洋文さんに白羽の矢が立ったのです。
「都構想が潰れて、維新の会にとっては一番厳しい時期でした。そんなときに、橋下さんと松井さんが吉村を呼び出した。橋下さんが吉村に『市長選に出てくれないか』と聞いた。吉村は5秒間ほど、じっと黙り込んだそうです。しかし、すぐに『わかりました』と答えたのです」
引用元:週刊現代
若き日の経験が生き吉村洋文は大阪市長へ

維新の会の幹部は、この時のエピソードをこう振り返ります。
下馬評は劣勢でしたが、橋下徹さんの応援を受け、見事大阪市長に就任しました。
その後、2019年には大阪府知事に転じ、現在に至るというわけです。

若い頃から培われた「努力の人」

吉村洋文さんの若い頃を振り返ると、一貫して「努力」というキーワードが浮かび上がってきます。
地元では神童と呼ばれながらも、名門高校では埋没し挫折を経験。
しかし、大学時代に猛勉強して司法試験に一発合格。
弁護士時代は毎日深夜まで働き、政治家になってからも24時間体制で仕事をする…。

「リーダーに必要なもの。特定の知識や学歴、外面ではありません。構想力、決断力、実行力、そして、勇気です」
引用元:大阪府立生野高等学校同窓会HP
派手さはなくとも、地道な努力を積み重ねてきた吉村洋文さん。
その若き日の挫折と努力の経験が、今日の政治家・吉村洋文を形作っているのかもしれませんね。



