石破茂の若い頃が実はイケメン!?15歳一人暮らし少年から元首相の声で政治家へ

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日本の総理大臣を務め2025年9月7日に辞任を発表した石破茂さんですが、若い頃は15歳での単身上京から「ダメダメ銀行員」と呼ばれた時代があったといいます。

若い頃のエピソードや写真を交え、知られざる若い頃の石破茂さんをわかりやすくお伝えします。

目次

石破茂の若い頃・名前が「金太郎」になるところだった

元首相・石破茂さん
元首相・石破茂さん
プロフィール

■ 石破茂

■ 1957年2月4日生/68歳
※2025年現在

■ 東京都千代田区出身

■ 父・石破二朗(元鳥取県知事)、母・石破和子(国語教師)

石破茂さんの幼少期を、ちょっと面白いエピソードと共に振り返ります。

父親が「金太郎」と名付けようとした

引用元:X
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石破茂さんは1957年2月4日、東京都千代田区で誕生。

父は元自治大臣で鳥取県知事も務めた石破二朗さん母は元国語教員の和子さんという、知的な両親と家庭環境で育ちました。

当時、事務次官だった石破二朗さんが48歳の時に生まれた子供でした。

父親の石破二朗さんは、最初は石破茂さんに「金太郎」という名前を名付けようと思っていたそうです。

二朗氏は当初、石破氏に「金太郎」と名付けようとしたが、母・和子氏が猛反対し、吉田茂元首相にちなみ「茂」となったという。

引用元:AERA DIGITAL

もしかしたら「石破金太郎」だったかもしれなかったんですね。

それはそれでインパクト大で政治家には良かったかもしれませんが…。

父が鳥取県知事になり一家で引越し

引用元:X
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翌年の1958年に、父親の石破二朗さんが鳥取県知事に就任したことで家族は鳥取県八頭郡郡家町(現在の八頭町)に移住。

石破茂さんは、中学校卒業までこの自然豊かな鳥取県で過ごしましたが、幼少期の東京の記憶はほとんどないと本人が語っています。

鳥取県東南部の山あいにある八頭町(やずちょう)。人口は約1万6千人で、鳥取駅から町の中心部の郡家(こおげ)駅まで、JR因美(いんび)線でわずか3駅。普通列車で15分程度の距離だ。

 後に、自民党の総裁となり、首相にまで上り詰めた石破茂氏(67)は、1歳から中学校を卒業するまで、自然豊かなこの小さな町で育った。

引用元:AERA DIGITAL

母親は教育熱心で強い女性

引用元:X
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母・和子さんは教育熱心で、小学生の頃には毎晩1時間ほど偉人伝を朗読させるなど、厳格な家庭教育が行われていました。

そんな厳格な家庭に育ちながらも、石破茂さんは中学3年生の大事な進学先選びを「慶應ライト・ミュージック・ソサイェティ」のバンド公演を見て「ああ慶應ってかっこいいな」というかなりいい加減な選択で慶應高校を受験したというから驚きです。

中学3年の夏休みに、慶應ライト・ミュージック・ソサイェティっていうイカしたバンドが鳥取で公演をしたんです。それを見て、「ああ慶應ってかっこいいな」と思いましたね。

引用元:慶應義塾生新聞

引用元:石破茂Instagram
引用元:石破茂Instagram

父親の石破二朗さんは、自分と同じ経歴を息子である石破茂さんに歩かせようと思っていたようですが、母親の和子さんがそれを猛反対したからなのだそうです。

鳥取の進学校を経て東京大学を卒業した父は、どうやら自分と同じような経歴を歩ませたかったようなんです。ただ母親が、それに猛反対しましてね。「知事の子供が県立高校になんて行ったら、今よりもっとチヤホヤされてばかりになり、この子はダメになる」。そんな感じでした。

引用元:慶應義塾生新聞

母親の和子さんは、石破茂さんの進む先をいつも心配していたんでしょうね。

腕試しで塾高を受けたら受かってしまったという石破茂さん。

「格好良さそうで、ある程度難しそう」というようないい加減な選択だったとしながらも、石破茂さんは中学校を卒業してすぐ、15歳で1人暮らしをして塾高(慶應義塾高等学校)に進学することになりました。

石破茂の若い頃・15歳1人暮らしでホームシックに

引用元:X
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15歳で1人での上京は想像以上に大変だったようです。

最初は一人暮らしに舞い上がっていた石破しげるさんでしたが、数日でホームシックにかかってしまい、東京駅に行って特急出雲に乗りたい衝動に駆られたこともあったそうです。

当時の慶應高校は「日本で一番ひどい学校なんじゃないかと思うくらいの放任」だったとのちに石破茂さんは語っており、1クラス50人で18クラスもあったとか。

石破茂さんも体育会ゴルフ部に所属し、「日々練習ばっかり行って授業中はずっと寝ていたけど、怒られた記憶はない」と振り返っています。

特に体育会に入っている生徒なんかはほぼ放置で、私も体育会ゴルフ部に所属していて、日々練習ばっかり行って授業中はずっと寝ていたけど、怒られた記憶はない。ただ授業のレベル自体はとても高いから、その気になって受ければ楽しい。全てが自由な学校だから面白かったです。

引用元:慶應義塾生新聞

15歳で1人立ちはホームシックにかかってもおかしくないですね。

でも、馴染むのも早くて、楽しく学校生活は満喫できたようです。

石破茂の若い頃・大学時代は法律の天才⁈

慶應義塾大学法学部に進学後、石破茂さんの才能が開花した出来事がありました。

不純な動機で入ったサークルで見事優勝

大学2年生の時には全日本学生法律討論会で見事優勝したそうです。

教授に「最高裁判事もいるから結論を変えなさい」と言われ、本番では論法を逆転させて優勝したという機転の良さも見せています。

刑法の教授が、2年生の成績優秀者を何人か呼んで学内予選をやったんです。確か、公文書偽造の事例問題だったと思います。その事例は実際あった事件で、当時の最高裁は公文書偽造にあたるとして有罪判決を下したものだったんですが、私は捻くれ者なので、「こんなもの公文書偽造にあたるはずがない」と無罪にする議論を展開したら、そのまま学内予選で優勝しちゃった。

引用元:慶應義塾生新聞

学生時代は「律法会」という法律研究サークルで活動し、「女の子がいるなら律法会に」という不純な動機で入ったと正直に語っているのも石破茂さんらしいですね。

妻の佳子さんとの出会い

大学では現在の妻・佳子さんとも出会っています。

第2外国語のドイツ語の授業で同席したのがきっかけで、石破さんは佳子さんを見た瞬間「わぁ、こんなきれいな人がこの世にいるのか!」と思ったそうです。

1年生のとき、第2外国語でともにドイツ語を選択し、同じ授業を受けたのが出会ったきっかけ。佳子さんを初めて見た瞬間、石破議員は「“わぁ、こんなきれいな人がこの世にいるのか!”と思った」と、鈴木哲夫氏の著書『石破茂の「頭の中」』(ブックマン社)で語っている。

引用元:女性自身

引用元:石破茂Instagram
引用元:石破茂Instagram

しかし佳子さんの第一印象は最悪で、「あまり第一印象がよくなかった」と語っています。

卒業後に石破さんが告白するも一度はフラれ、約3年後に再会して結ばれたという、まさにドラマのような恋愛遍歴だったそうです。

アタック失敗後、2人の関係は一時途絶えたが、それから約3年後に再会する。

引用元:女性自身

ちなみに,

石破茂さんと妻の佳子さんの結婚式で父親代わりをしてくれたのは、あの田中角栄さんでした。

石破氏は1983年、26歳の時に慶応大学の同級生だった佳子さんと結婚する。すでに二朗氏は亡くなっていたため、結婚式で父親代わりになったのは田中角栄氏だった。

引用元:AERA DIGITAL

石破茂の若い頃・「ダメダメ銀行員」時代

引用元:X

1979年、慶應大学卒業後は三井銀行(現三井住友銀行)に入行しました。

初任給は8万円弱で、朝6時に寮を出て夜11時まで働く激務の日々だったそうです。

配属は日本橋本町支店で、千葉県松戸市にある社員寮を朝6時に出て、朝7時半に職場に入り、夜は残業につぐ残業という生活でした。午後11時より早く帰った記憶はあまりなく、ほとんど終電でした。

引用元:現代ビジネス

ここで石破さんの意外な一面が明らかに…。

銀行員特有の技術が身につかず、上司に叱られてばかりだったようです。

お札を扇のように開いて数える技術も上手くできず、まさに「ダメダメ銀行員」だったとか。

実は最初はとても苦労したんです。「お前ね、算盤ができなくてもいいとは言ったが、計算機ができなくていいと言った覚えはないぞ」と言われましてね。銀行員特有の、右手で伝票をめくりながら左手で計算機を使うという技術がなかなか身につかない。お札を両手でクジャクの羽のように開いて、数えるのもうまくできない。

引用元:現代ビジネス

それでも終電前には毎晩のように先輩とき鳥屋でホッピーを飲んでいたそうで、人間関係は良好だったようです。

石破茂の若い頃・政界入りのきっかけは田中角栄の一言

若い頃の石破茂さん
若い頃の石破茂さん

銀行員として充実した日々を送っていた石破茂さんでしたが、1981年に父親の石破二朗さんが亡くなったことで人生が一変します。

父の葬儀に参列した田中角栄元首相から「昭和58年には衆参同時選挙がある。そこでお前は衆議院議員になるんだ!」と言われ、政界入りすることになったのです

石破茂と田中角栄元首相

これらの経験が現在の石破茂さんの政治スタイルの基礎を作ったのかもしれませんね。

若い頃の石破茂さん
若い頃の石破茂さん

政治家になる前の石破茂さんは、私たちと同じように悩み、失敗し、成長していった普通の青年だったということが分かる貴重なエピソードでした。

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