2010年のバンクーバー五輪。
当時20歳だった近江谷杏菜さんは、チーム青森の一員として五輪の舞台に立ちました。
でも、その経験は決して順風満帆なものではなく、大会中盤はベンチで試合を見守る時間が増えていった日々。
あれから16年、2026年のミラノ・コルティナ五輪で再び五輪の舞台に立つことになった彼女の経歴と歩みを振り返ります。
近江谷杏菜がバンクーバー五輪で経験した「壁」

プロフィール
氏名:近江谷 杏菜(おおみや あんな)
生年月日:1989年10月12日生/36歳※2026年現在
出身地:北海道常呂(ところ)町
身長:166㎝
好きなこと:もの作り、料理、スポーツ観戦
強み:正確で力強いスイープ、多彩なショット
所属チーム:フォルティウス
その他:(公社)日本カーリング協会 アスリート委員、国際委員、スペシャルオリンピックス日本・北海道 どさんこサポーター
ちなみに、近江谷杏菜さんの結婚相手(旦那さん)や家族についてはこちらの記事で紹介しています。↓↓↓

まず、バンクーバーでの近江谷杏菜さんの状況を振り返ってみましょう。
親子二代のオリンピアン!しかし結果は8位

2010年2月、近江谷杏菜さんは20歳でバンクーバー五輪に出場しました。
ポジションはサードです。
父・近江谷好幸さんが1998年の長野五輪にカーリング日本代表として出場していたこともあり、親子二代でのオリンピアンとして大きな注目を集めました。
チーム青森の一員として臨んだ大会でしたが、結果は8位。
親子での五輪出場という華やかな話題の裏で、選手としての厳しい現実に直面することになります。
第7戦以降ベンチ時間が増えた現実
そして何より、大会中盤の第7戦以降、スターティングメンバーから外れるという経験をしています。
華やかな五輪の舞台で味わった、20歳の挫折でした。
親子での五輪出場という華やかな話題の裏で、選手としての厳しい現実に直面しましたが、のちにこの挫折は、彼女の競技人生を形作る大きなきっかけとなりました。
世界最高峰の舞台で自分の実力を冷静に見つめる…それはまだ20歳の近江谷さんにとって、辛くキツイ学びだったはずです。
チーム青森時代の6年間は補欠から主力への成長期

引用元:全農バンクーバーオリンピック日本代表決定戦参加チーム
バンクーバー五輪に至るまでの道のりは、どのようなものだったのでしょうか。
2008年にリザーブとして加入
近江谷杏菜さんがチーム青森に加入したのは2008年1月のことです。
当初はリザーブ(補欠)として、チーム最年少の若手育成枠という位置づけでした。
そこから実力をつけ、サードのポジションを任されるまでに成長していきました。
日本選手権連覇とオリンピック出場
チーム青森としては2008年から2010年にかけて日本選手権を連覇するなど、国内では確かな実績を残しました。
オリンピック出場も、この国内での積み重ねがあったからこそ実現したものです。
チーム活動休止…そして故郷・北海道へ
ただ、2013年にチームが活動休止を決めると、近江谷さんは現役続行を選択。
2014年3月に青森市役所を退職し、故郷・北海道へ戻る道を選びました。
カーリングを続けるために、安定した職を手放すという大きな決断でした。
北海道銀行フォルティウスで掴んだ国際舞台への復帰

そして、彼女のキャリアに大きな転機が訪れます。
2014年4月、近江谷杏菜さんは北海道銀行のカーリングチーム「フォルティウス」に加入します。
より高いレベルで勝負できる環境を求めての決断でした。
2015年世界選手権で6位入賞を果たす
この移籍が、彼女のキャリアに大きな転機をもたらします。
移籍翌年の2015年には日本選手権で優勝し、同年の世界選手権では6位入賞。
バンクーバーから5年という月日を経て、再び世界の舞台に戻ってくることができました。
日本選手権3度優勝、そしてミラノへ

その後も2021年、2025年と日本選手権を制覇。
世界選手権にも継続的に出場を重ね、2025年の日本選手権優勝が2026年ミラノ・コルティナ五輪の代表切符につながりました。
環境を変えた決断が、確実に結果として形になったということですよね!
カーリングとの出会いは小学4年生――ジュニア時代からの実績

では、近江谷さんとカーリングの出会いはいつ頃からだったのでしょうか?
北海道常呂町から始まった快進撃
近江谷杏菜さんがカーリングを始めたのは、小学4年生の頃、地元・北海道常呂(ところ)町で氷に触れたのが始まりでした。
ジュニア時代から才能を発揮し、2002年にはチーム「マリリンズ」で日本ジュニア選手権を制覇。
2003年と2004年には北海道ジュニア選手権を連覇し、高校時代の2006年・2007年には北海道選抜として全国高校カーリング選手権を2連覇しています。
この若い頃からの経験が、のちに国際舞台で戦うための土台になっていったのは間違いありません。
幼少期からトップレベルで競い続けてきたことが、チーム青森加入後の成長スピードにもつながっているのがわかりますよね。
近江谷杏菜、バンクーバーの経験が現在のプレーに与えた影響

ここで、最も重要なバンクーバーでの経験は、彼女をどう変えたのでしょうか。
挫折が育てたメンタリティと準備の大切さ
2010年のバンクーバー五輪は、近江谷杏菜さんにとって「五輪で結果を出すことの難しさ」を痛感する体験となりました。
20歳で立った五輪の舞台で、スターティングメンバーを外れるという苦い経験をしたことが、その後の競技への向き合い方やメンタリティの構築に大きく影響したと言われています。
環境を変える決断が実を結ぶ

具体的には、どのような変化があったのでしょうか。
バンクーバー後、環境を変える決断をし、フォルティウスで再起を図り、世界選手権への復帰を果たし、そして日本選手権での複数回優勝という成果を積み重ねてきました。
挫折を経験したからこそ、準備の大切さや精神面での成熟が進んだと考えられます。
2026年のミラノ・コルティナ五輪では、20歳の時とはまったく違う、経験を積んだ選手として氷の上に立つことになります。
バンクーバーでの悔しさが、今の強さの源になっているはずです。
16年という時間をかけて磨き上げた技術とメンタル…それは、一度挫折を味わった選手だからこそ持ち得る絶対的な強さなのかもしれませんね。
16年かけて掴んだ「もう一度」のオリンピック

2010年のバンクーバーから2026年のミラノ・コルティナまで、16年という月日が流れました。
父・好幸さんが長野五輪に出た時から数えれば、親子二代で歩んできた五輪への道のりです。
バンクーバーで味わった悔しさをバネに、2026年、成長した姿でミラノの氷に立つ近江谷杏菜さんの活躍を、楽しみに見守りたいですね!
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